酸っぱいアイス
幸せとは何か、という問いを昨日投げられた。
人それぞれ幸せに関する主張はあるだろうが、私は全ての愛おしい瞬間に「幸せ」というラベルを貼ることにしている。
幸せというのは、なんというか「生きてて良かった」と「今なら死んでも良い」が混在するような、不思議な気分である。
幸せに再現性は求めない。だから定義付け名付けるのではなく、ラベルを貼って、自分の人生を振り返った時に「ああ、幸せだったなあ」と愛おしむだけ。今幸せになりたければまた新しい瞬間にラベルを貼れば良い。
レストランで友人と「消したい過去はあるか?」という話になった。
びっくりするくらい思いつかなかった。
どんなに不格好な生き方だったとしても、何か1つでも過去がズレたら、今の私でなくなって、今までの私が「幸せ」というラベルを貼り付けたものに出会えなかったかもしれないと思うと、寂しかった。
そのあと注文したアイスの酸っぱさにびっくりして、酸っぱさにびっくりしたのが可笑しくて笑って、そんなことに笑えることにまた私は「幸せ」というラベルをつけた。
ちょうどその時、学生から「中村さんが死をまとって生きていることを受け入れたくない。それは一歩間違えると生への嘲笑となるからだ」というメッセージが来ていた。
”死”は多くの場合ショッキングで、不謹慎で、軽々しく話てはいけないことだとされているから、死というワードを口にすると人はとても敏感になる。
特に苦しい思いをしてきた自負のある人は、感じた絶望や死にたかった自分やそれを乗り越えてきた経験がアイデンティティとなり、生き抜いてきた事実を軽んじられることに対しての恐怖心が強い。
その気持ちはめっちゃ分かるから、私は「そんなことで死んじゃったの」とか「生きたくても生きられない人に失礼」という言葉が大っ嫌いだけれども、一方で死とは後付けの概念でしかないから、軽いも重いも無いんだよなあとも思う。
死を不幸なこととして捉える人は多いが、残された人々がある個体の活動停止に色付けをし生まれた概念にすぎない。本人と過ごすはずだった(と勘違いしていた)未来や、その人の生き様に勝手に思いを馳せ、その個体の存在そのものに意味付けをしているだけだ。
幸せであることよりも不幸であることの方が実感しやすく、「不幸ってなんだろう」とは誰も考えないのに「幸せってなんだろう」という問いは常に世界中で飛び交っている。
一方で自分が不幸だと思った方が色々うまくいかないことに言い訳ができるし、諦められるし、構ってもらえるし、何かと都合がいい。
ただ消したいような過去や苦しんで積み重ねた日々も、アイスが酸っぱかっただけで笑える今日の自分に繋がっていて、それを「不幸だった」と解釈するのは、幸せと書いたラベルを握りしめて生きている自分に失礼な気がして出来ない。
メッセージをくれた学生には、生死の捉え方には色々あるよねというのと、苦しみながらも積み重ねてきた全ての日々に敬意を表します、という趣旨のメッセージを返した。他者である私に出来ることは、今彼が存在している事実を尊重することと、いざ存在をやめたくなった時に隣で手を繋ぐことだけである。