太陽
二ヶ月前に26歳になった。
普段は全く思わないが、ふとした瞬間、こうやって歳を重ねる機会などがあると、自分は一瞬で消えてしまうと錯覚するような人生をどこまで送っていくのだろうと感じることがある。私が昔も今も確かに存在していて、この先の未来も確かに存在していくのだと、この歳になってもまだ実感が出来ていない。
たくさんのお祝いの言葉や、直接会えない中で家に届いた数々のプレゼントを眺めながら、降り注ぐ愛情を1人では受け止めきれず幸せに窒息しそうになると同時に、私にはこの人たちにあげてよかったと思えるほどに何かを与えられているだろうか、と虚無感に襲われるのもまだ変わらない。
とはいえ私にとって25歳の大きな変化は、一つ一つの問題は死に物狂いで解決しようとしなくても人生はやり過ごせるということに気付いたことだった。やり過ごしても食いっぱぐれない土壌を築いたからこそ言えるのかもしれないが、幼き日々は全てに怒り、悲しみ、絶望し、期待していた私が、不快の根源に対して自分が傷だらけになりながらも解消しようともがく方が好きだった私が、痛みに向き合うこと以外自分の時間の使い方を知らなかった私が、考えても仕方ないことに対して少しだけ、いやかなり、鈍感になった。
こういう生きやすい人になるたびに、私には思い出すことがある。高校生の時に初めて見た「太陽」という舞台だ。詳細はググってみて欲しいのだけど、雑に説明すると頭脳明晰でフィジカルも強くなるけど太陽を浴びられなくなり弱者の気持ちを心から理解できなくなるか、愚鈍で人間臭いけど太陽のもとで全てを味わえるようになるか、どちらの方がええですのんとグロテスクに問いかけるお話です。
目の前の痛みをやり過ごせるって楽だなあ、と思う一方で、痛みは消える訳ではなく、どこかにずっと潜んで静かに降り積もっていて、それがふとした瞬間に途方もない虚しさを運んでくるのかもしれない。虚しさも喜びも全部セットで紡がれていく人生の中で、人によって食べ物の熱さや辛さの感じ方が違うように、虚しさに対する感度が高い人がそれさえもやり過ごすことに慣れたとき、人生の突き抜ける喜びはどこで味わえるようになるのだろう。
そういえば、こんな話をしていると(普段はしないけど)色んな人が私のメンタルヘルスを心配してくれるのだが、私はもともと安定して暗いところがあるだけで精神的に不健康になっている訳ではない。こう、肌が褐色だと健康そうで白いと不健康に見えるけど別に関係ないのと一緒だと思っていただけると良いんじゃないでしょうか。
他にも、背負っているものに潰されないかとか、頼れる人はいるのかとか、信頼できる人はいるのかとか、なぜかすごくよく聞かれる。側から見るとそんなに頑張ってる感じに見えるのかと思うと結構恥ずかしさもあるのだけど、「そこまで気にしたことない」というのが率直な答えで、それは私自身が無意識のうちに色んな方々にたくさん支えてもらって助けてもらっているからだと思う。なんなら五体満足でちょっと運動不足なくらいで、酒にも酔わないし胃腸も強く、花粉症もないのでむしろ普通の人より楽に生きている。そんなことを聞いてくれる人がいなかった若き日々の方が今と比べたら吹けば飛ぶような心もとなさがあった気がするけど、当時も「昔に比べたら」と思っていたような気がするし、喉元過ぎればなんとやらなのかもしれない。
こんなに辛いことがなくて大丈夫なんだろうかと思うほどイージーモードな人生で、日々たくさん食べてたくさん寝て元気です。皆さんのおかげです。いつもご心配、ご応援ありがとうございます。