考える葦になりたい




ブログを始めた理由は主に3つ。


1つ目、機能としては確かにnoteでいいしtwitterでいいし自社メディアでいいのだけれども、あまりにもナイーブな内容だったり、どこにもいかない概念の話だったり、アールグレイの香りが好きだなどの取り止めもない話だったりするとどうもあげづらい。



2つ目、ありがたいことに私の文に救われると伝えてくださる方にたまに出会うので、紡いだ言葉を誰かに届く状態にしておきたい。



3つ目、物質としての私と概念としての私を繋げる手段。(あ、この段落はだいぶ抽象度が高くなりそう、読み飛ばしていただいて全く問題ないですよ!)認知フュージョンという言葉があって、超平たく言うと自分自身を客観的に見れない状態のことを言い、対義語はディフュージョンなのだが、私の場合、概念の世界を揺蕩っている時間がとても長く、認知ディフュージョンが起きすぎている。

今こうしてキーボードを打っている自分や人と話してる自分や歩いてる自分でさえも「何だろうこの思考パターンのタンパク質の塊は」と思うことがよくある。

概念の世界で実体を伴わずに漂い、言語化されないひとつひとつの本質に触れようとする行為は、私にとって水を飲むような感覚で、気持ちが良くて、エネルギーを消費しない。本当はずっとそうしていたいのだけど、より深く広い概念の世界を探索するためには色んなものに出会わなくてはならず、色んなものに出会うためには私の入れ物である身体を動かさなくてはならず、身体を動かすためには食べねばならず、食べるためには働かねばならず、そういう訳で結果的に私は現世に物質として存在し社会とやらにヒューマンビーイングとして認知されている。


私が有意識で生息するためには物質として生息することが必要条件なのではあるが、あまりにもその二つの場所に乖離がありすぎて、物質として生息することをふと忘れそうになる。その乖離した二つの世界を繋げる手段が概念の世界の私を顕在化させて物質として生息する世界にチューニングすることなのである。

というのを一文でまとめると「考え方を言葉にして公表したら思考の波にのまれずに済みそうだからブログやるね」ということです。



人間は考える葦である、というブレーズ・パスカルの言葉があるが、私のもやしっ子レベルは群を抜いており、きっと毅然と水辺に生きる葦の方が圧倒的に逞しい。葦はウィキペディアによると条件さえよければ地下茎は一年に約5m伸び、茎は2~6mの高さになり、暑い夏ほどよく生長するらしい。草なのに茎が木化し材として使えて、紙にも船にも楽器にもなるそうだ。強すぎる。葦すごい。
私はそんな成長率もなければ、汎用性も高くなく、そもそもあんな吹きっさらしの場所で立ちっぱなしでいられるほど体力も精神力もない。だからもし葦が考えだしたら、中村多伽なんて太刀打ちできない葦の下位互換となる。だから私は考える葦になりたい。