美人とセクシーさについて
ニューヨークに住んでいた時、本当に多くの人に出会った。
特にマンハッタンの中心部は世界中から人が集まる。
見た目1つとっても人間であること以外全てが違うその場所で、最初は自分の見た目がニューヨークではどんな判断をされるのか気になっていたし、「アメリカ 日本人 美人」で検索したことある。
しかし過ごしていくうちに、多様すぎるルックスと多様すぎる価値観の中で見た目が美人かどうかという評価自体がナンセンスであることに気付くと同時に、人種を超えた圧倒的な”美形”には服装や化粧や体重変化などの小細工では太刀打ち出来ない事も痛感した。
マンハッタンに住む彼らのスタイルで特に印象に残ったのは(もちろんピンキリではあるのだけど)服装もメイクも日本と比べると圧倒的にシンプルで、媚態を伴わないことだ。
日本のモデルさんを見ると「守ってあげたい」「可愛らしい」的な雰囲気の写真が多く、可愛い笑顔かキョトン顔がファッション誌の表紙を飾ることが多い印象がある。一方私がマンハッタンで見たファッションの多くの印象は「自律」「個性」だった。小動物的な可愛らしさが日本女性の強みかもしれないし、私はそんな日本の女の子達が大好きなのでそれを活かすのは大賛成だが、私のルックスの特徴や性格としてはどちらかというとマンハッタンスタイルの方が合っていることに気付き、滞在中に服やメイク方法のほとんどを変えた。
その時から私の中で美しさとは造形云々ではなく、いかに持っている素材を自分が一番好きな形で、信じる形で表現するかだと思うようになった。
なので個人的な意見では美人=自分の持つものを愛情と自信を持って表現している人、だと思っている。
ちょうどその頃「体形にコンプレックスを抱える女性が自分の体を愛するためにランジェリー姿で撮影する」というVOGUEの企画にてプラスサイズモデル(=平均的なモデルよりやや肥満気味のモデル)のアシュリー・グラハムさんが、自分の体を愛するためのコツを指南しているのを見た。企画の中で彼女は自信のない部分をあえて見せ、自信のある場所を強調することを参加者の女性に伝える。”嫌なものを隠す”という発想を捨て去るこの企画を見て、私は素直に彼女たちを美しいと思った。
それをきっかけに私も「隠すためのメイク」とか「隠すための服装」に意味を見出さなくなり、自分の体そのものを”演出”することこそ美人であるための有効な手段と捉えるようになった。
話は少し変わるが、「セクシーかどうか」みたいなのも定義が難しい。というか私のセクシーの基準は多分人と違う。見た目におけるセックスアピールがある人は確かに素敵だと思うのだが、セクシーだなとは思わない。
知性があり、優しさがあり、しかしその真相は掴み所がなく、融け合わず、人に予想させないが着実に結果を出すような、そういう複雑性の極みみたいなものを持ち合わせている人を見ると思わず「えっろ」と思う。
もう少し広義のセクシーさでいうと、深みのあるアンチテーゼを内包していること。例えば柄悪そうに見えて物腰柔らかな人とか、繊細そうに見えて芯の通った強さを持ってる人とか、頭悪そうに見えて精巧に計算されたコミュニケーションをとる人とか、他者がその人に対して立てる一般的な仮説を奥ゆかしく覆すような、そんな感じの人である。
美人にせよ、セクシーな人にせよ、他者評価に依存していない人ってなんかステキっぽいなと思うんですけど、これって私だけなのか一般的な見解なのかどっちなんでしょう。他者評価に依存しないようにするっていうのはちょっと逆説的で難しそうだけど。