「甘えんな」は正しいのか



「傷付いてないフリが得意な人より傷付いたフリが得意な人の方が有利」
これは昔付き合っていた男性がめちゃくちゃナイーブだった時にふと気付いたことだ。
その人は嫉妬しやすく、ひとたび嫉妬すると「悲しい」とか「タカちゃんは気遣いが足りない」とかすぐ言う人だったので、私はその人の前で今まで付き合っていた人の話はおろか男性に関する発言は何1つ出来なかった。私は私で彼が望まないのであればわざわざする必要性も感じなかったというのもある。

一方で彼自身は元カノの話をよくする人で、私はその人の女性関係に嫉妬することはなかったので普通に楽しく聞いていたが、自分が傷つく事を人にはやるのかよ、と思い一度それについて聞いたことがあった。
彼に言われたのは「嫉妬して欲しいと思って話す一方で、嫉妬しないから話せる半分かな」と言われ、どんな矛盾だよ!と心の中でツッコミつつ何とも言えないモヤモヤを感じた。
帰ってから違和感の正体について考え、「あ、この人はすぐ傷つくから私に配慮されてて、私は全然傷つかないからこの人に配慮されなくて、その不平等感がなんか嫌なんだな」と気付いた。

傷つくとか、これが欲しいとか、そういう自分中心の欲求を外に出すことはオトナ達の世界では敬遠されることが多い。会社とかそういうシステマチックに動くコミュニティの中では、自分の欲求ばかり通そうとすると必ずどこかに不和が生じる。だからそういうことを排除するように求められる。甘えんなとかワガママ言うなとか、社会人にとっては当たり前すぎることのように捉えられている。

人間(てか生物)は優位性を担保するための努力をすることがプログラミングされていて、自分の思い通りにいかないことに怒りを感じたり、自分を大切に扱われないことに悲しんだりすることは本来とても自然なことのはずである。
しかし私たちはなぜか”それらの感情を上手に発散すること”よりも”それらの感情を排除すること”を教えられるのである。
この”上手に発散”というのがポイントで、ただ発散しまくると「あの人は自分の欲求通せてずるい」から「迷惑」にまで発展して本人も周りも疲弊してしまうのだが、”上手に”出来れば私のような「まあそういうもんか」と思える人が適応していき、自分の思い通りの環境がどんどん作られていくのである。

じゃあ一方「まあそういうもんか」と思える人はどうなるかというと、以前「『ほしい』を排除する現代人たち」でも触れたが、自分は何が怖くて何が欲しかったのか、どうだったら良かったのかが分からなくなっていくという不均衡が生じていく。
”誰かに対する「ほしい」という気持ちを小さく小さくたたんで心のゴミ箱に捨てていくうちに、それが溜まっていって、自分の中の闇がどんどん深まっていくようになり、他人に何してほしいのか、どうしてほしいのか、本当にわからなくなっていった。
 
近しい人に「死ねばいいのに」と言われても、親友に物を盗まれても、本気で好きな人に二股されても、怒ることも悲しむこともせずただ消費された感覚だけが残り、「じゃあどうしてほしかったんだっけ」と考えるとよく分からなくなる。
 
悲しくない訳ないことに全く悲しまない自分にドン引きする。「ほしがらない、嫌がらない私が悪い」と思えばそれで全て終わる気がして、そうやって思うことにした。”
アダルトチルドレンの状態などは典型的で、幼少期に生きやすくなるために周りの環境に自分の性質を適応させたはずが大人になってからその性質によって環境を適応させることが出来なくなり、うつ病をはじめとする精神疾患を患い、生きづらくなっていくというものだ。

よく考えてみると、自分が甘えられる立場の時は「いや大丈夫なんで」と言われるより可愛く甘えられたり頼られる方が気持ち良い。上手に甘えられる人と甘えられた人はwin-winの関係を築けるのである。それだったらそっちを全人類が目指した方が平和である。お互い甘えられるようになりましょう。全人類じゃないと誰かにしわ寄せが行くので、みんなで「せーの」で。そっちの方がよっぽど健康的でしょ。