期待と幻想の違い
「人間関係や恋愛関係においてどうしても見返りを求めてしまうんですが、どうしたらいいですか」という人を見て、私はいつから人に見返りを求めなくなったのだろう、と考えてみた。
何かアクションを起こし、そこで何かしらの結果が得られるかどうかの確率は
求める結果が科学的/数値的/法律的根拠に基づいている度合い×自分で対象をコントロールできる度合い
に分解できると思っている。
自分がコントロールできるものでいうと、人間関係においてコントロール可能性の高さは
自分>>|超えられない壁|>>家族>恋人>友人>知り合い>他人
だと認識している。
例えば「自分が今日寝る確率」を上記の式に当てはめてみると、基本的に毎日私は寝ているので
限りなく結果が数値的な根拠に基づいている×対象はコントロール可能性がかなり高い自分
となるので、結構高い確率で”寝る”という結果を得られる。
一方で「知り合いに金を貸して返ってくる確率」でいうと、
その人が金を返すという根拠×知り合い
なので知り合いがどれくらい近い存在かや、知り合いの人間性によってはまあまあ低い確率で”金が返ってくる”という結果を得られることとなる。
ここまではわざわざ分解しなくても分かりますよね。
じゃあ、「恋人を愛してその見返りが返ってくる確率」ってなんだと思います?
まずその恋人を愛した時、相手が愛したことにお返しをする科学的/数値的/法律的根拠ってなんでしょう?もうかなりハードルたかそうですよね。見返りとして何を相手が想定するのか、あなたは自身は何をもって”返してもらった”と認識するのか、など曖昧で不確定な要素が多すぎる。
そこに”恋人”というアンコントローラブルな要素をかけてるので、結果”恋人を愛してその見返りが返ってくる確率”って限りなく低くなりそうですよね。
ここで一部の人が勘違いしがちなのは、親友、家族、恋人などいわゆる自分でコントロールできない完全に外部の要素を管理可能な内部要素として考慮してしまうということ。
家族も親友も恋人がどんなにあなたに優しかったとしても、それはあくまで「あなたに優しくすることが自分にとって幸せだから」という彼ら自身の内発的動機に基づいている。彼らは彼らの好きなように動いていたら、たまたまあなたの願望とマッチしただけという話である。
上記のように、私は何かが返ってくる可能性はほぼないことを前提に人間関係を構築するので、見返りを求めない人のように見えるのだと思う。(の割に色んな方にたくさんのものや想いを頂いているので日々感動しているし感謝してもしきれません。。。)
期待値が限りなくゼロに近い場合、それは期待ではなく幻想と呼ぶべきだ。
自分が恋人を愛しているから恋人も自分を愛してくれるはず、親なんだから自分のことを愛してくれるはず、友達なんだから助けてくれるはず、それは「求める結果が科学的/数値的/法律的根拠に基づいている度合い×対象をコントロールできる度合い」の両方の値が限りなくゼロに近いので、期待ではなく幻想なのである。
他者に対して、何か求めていたものが得られなかった時「あの想定は期待だったかな?幻想だったかな?」と振り返ることがある。そういうときはいつだって幻想なんだけど、その時は限りなくゼロに近い値を直視したくなくて、”期待”してしまっていることが多かったりする。
ちなみにこんなに期待と幻想の違いについて話しているけど、私は期待と幻想の違いなんか意識しないほうが人間らしくていいと思います。ドラマってきっと期待ではなくて幻想から生まれるものだと思うし、ドラマに溢れた人生の方が楽しそうじゃないですか?