「えりさん」の話




ニューヨークにいた時、私はマンハッタンにある女子寮に住んでいた。
そこにはプロのダンサーやパフォーマー、医者、会社員がアメリカ国内外からやって来て、毎日朝と晩に決められた時間に食堂に来てご飯を食べていた。
コミュニケーションに自信のない日本人は2、3人で固まって、よく話していた。

私がニューヨークに着いて1ヶ月ぐらい経った時、初めて食堂で「えりさん」に会った。
正直、りえさんだったかえりさんだったか、見た目が深津絵里っぽかったのでそう記憶してて実は違う名前だったのか思い出せない。それこそ深津絵里とか宮沢りえみたいな儚くてアンバランスな、白くて細くて美しい女の子だった。

確か私の1個上か同い年だった彼女と少し話して、すぐ打ち解けた。
めちゃくちゃ偏見だが、ニューヨークに来る日本からの留学生、特に女子は本当に気が強い。留学先としてニューヨークを選んで、その中で成り上がろうとしてるんだからそれはそうだとも思う。生命力がまるで違う。意見も物怖じせずに言うし、負けず嫌いだし、嫌いなものに対してめちゃくちゃ正直だ。私も気は強い方だと思っていたが、彼女たち(だいたいダンサーか役者志望で、年下だった)のエネルギーは圧倒的だった。
けれども、「えりさん」は全然違った。空気のような感じで、同調もせず、主張もせず、全てに冷めていて、けれども優しさを残しているような人だった。
だから私は一瞬で彼女を好きになり、彼女と仲良くなった。

ニューヨークの滞在初期は、ビジネススクールに通いながらフルリモートでエクササイズ系のサービスのデジタルマーケティング(とは名ばかりの、営業先をリストアップしたりサービスのInstagramアカウントに投稿する用のクリエイティブを作ったりする)インターンをしており、とにかくめちゃくちゃ暇だった。
だから私は、美しい初夏のマンハッタンを「えりさん」と散歩した。
一緒にギリシャ料理店に行ったり、マーケットにりんごを買いに行ったりした。

ニューヨークはとにかく物価が高い。マンハッタンなんてその際たるものである。タバコは当時一箱13ドルくらい(日本円にして1500円ほど)、バーで酒を飲んでも同じくらい。
その寮は全面禁煙禁酒だったが、貧乏留学生だった我々は酒をこっそり買って来て、「えりさん」の部屋で飲んだ。

その時初めて、今までじっくり話してこなかった身の上話をした。

彼女にはフランス人の彼氏がいた。ちょっとふくよかで可愛いと言っていた。アメリカに住んでいる親に挨拶にも行ったらしい。重すぎてうざいこともある、とも言っていた。
同時に、イタリア人のセフレもいた。その頃ちょうどアメリカで流行っていたTinderで出会ったらしい。マッチョだから好き、と言っていた気がする。
それと、道でばったり会った黒人のセフレもいた。彼はコカインを一緒に吸おうと誘って来たらしく、キマりすぎた状態でセックスしてきたので怖くて逃げたと言っていた。

どこまで本当の話か分からないが、私はその破滅的な「えりさん」の話を面白がりながら、コンビニで買ったポテチを食べていた。
そのあと、自分らの生い立ちの話になり、「えりさん」が家族と良い関係ではない話、真面目で良い子だったのに彼氏にひどい振られ方をしたせいで自殺しようとした話、オーバードーズ(薬物の過剰摂取)しても死ねずに、最低な女になりたくてデリヘル嬢を始めた話、その仕事でお金を貯めてニューヨークに留学し、今は絵の勉強をしている話などを聞いていた。
その時彼女は、突然スマホを見て「あー。どうしよう」とつぶやいた。
どうしたの?と聞いたら、「本当に、タカだから言うんだけど」と、日本でサラ金から借りた借金を返さなきゃいけない、その催促が来たのだ、と話してきた。

なんでそんな借金を抱えたことになったのかと聞くと、金(ゴールド)の売買をしているという知人に、必ず返すから一緒に一儲けしようと言われ貸したらしい。残高がなくなって、でも本当に返すからと、サラ金でも借金をさせられ、トンズラされたとのこと。
そんな典型的な詐欺、引っかかる人いるんだ…と逆にショックを受けたが、あまりにも「えりさん」のテンションが低くて可哀想だったので、知り合いの弁護士に電話して、状況を説明した。
書面(というかメール)での約束も残っており、相手の本名や住所も分かっているので、法的措置は取れる、という回答を聞き、彼女は「よかったー。持つべきものは友達だね。嬉しい」と言っていた。今思うと、もしかしたら私に借金を背負わせることを考えていたのかも、真面目に弁護士に相談して欲しいわけじゃなかったのかも、とも思うけど、彼女が嬉しそうだったので私は安心したし、「愚かだなあ」とも思った。



以前、「えりさん」は部屋でタバコを吸ってて寮のシスターに見つかりめちゃくちゃ怒られたから、タバコは屋上で吸おう、と言った。儚い顔してとんだ猛者だが、私たちは酒の缶を隠し持ち、屋上へ上がった。

世界の中心にしては少し静かなその場所で、ハドソン川から流れてくる夜風を浴びながら、「えりさん」はアメスピを、私は日本から持ち込んだメビウスを吸っていた。
その日は月が綺麗で、私は見上げて、私の働いていたバーのママの話をした。
私が夜遅くまでバーで働き、帰りは酒を飲まないママの車に乗せてもらって帰っていた時のことだ。とても綺麗な満月で、「あ、月」と私が言うと、ママは「月を見ると女は不幸になるのよ」と呟いた。
さすが、祇園の一等地で長いこと経営しているだけあるなあ、と感心していたら「って細木数子が言ってたんよ」と何気ない顔でママは言った。いや、細木数子かい!
そんな話をした時、ふと「えりさん」は笑いながら言った。

「多分、私たちは一生不幸なんだと思う」

「えりさん」が”私たち”とくくったのは、境遇やバックグラウンドや経験したことが似ていたからだと思う。特にその時の私も割と破滅的な状況で過ごしていたので、だからこそ仲良くなれたのだろう。

「そうだねー。一生不幸だろうね」

と私はなんの疑問も感じず答え、眠くなった私たちは別れて自室に戻った。

それから数週間経った頃、少し暑くなったマンハッタンの昼下がりに、「えりさん」はビザが切れるから日本に帰国することになった。本当に寂しかった。今まで会ったことないくらいクズで、孤独を舐め合える、ドライで美しい女の子。私が日本に帰ったら絶対会おうね、うん、これは絶対会うね、と約束して、「えりさん」を寮の外まで見送った。

結果から言うと、「えりさん」とは私が帰国しても会わなかった。帰国するまでに私にも生活の変化がありすぎたのと、就活で忙しかったのと、まあ言い訳はいくらでも思いつくのだが、端的に言うと多分、「2人で過ごしたあの美しい一瞬が、日本で会ってしらけてしまうのが怖い」という気持ちだった。会わないうちに名前も忘れ、連絡先もどこかへ行ってしまった。

それでも、今でも私は「えりさん」の言葉を時々思い出す。
いやいや、ずっと不幸なんて何言ってんだよ、私はなんだかんだ上手く生きちゃってるよ、と思い返すこともある。けれどもどちらかというと、ずっと信じていたものに突然裏切られた時、上手く行くはずだったことが台無しになった時、ふと蘇る。

「多分、私たちは一生不幸なんだと思う」

結局、人生ゲームの最後のコマが「不幸」なのかも、と、どんなに紆余曲折があっても「やっぱり私は、幸せになれないんだね」と、絶望と納得感からくる安堵が混じったような気持ちになる。

私は今まで、本当に苦しい時は日記をつけていた。なんで苦しいのか、どうなったら苦しくなくなるのか、整理をしているつもりだった。ただそんな時に自分を客観的に見て前を向くエネルギーなんて到底残っておらず、結局「幸せは猛毒だ。一度味わってしまったらもうおしまいだ(10代の日記より抜粋)」とか考えてしまっていた。最後に笑うのは誰だ。私じゃないのか。私じゃないのならば、最初から幸せなんていらない、と思っていた若き日々。今では日記に記す回数もめっきり減った。いやー、若かったなあ。若かったのか、本当に苦しかったのか、今では思い出せない。
きっとこの先も、「えりさん」の言葉を思い出すシチュエーションに出会うんだろうけど、なんかもはや「幸せになる」「不幸になる」という言葉に意味がなさすぎて、同じように感じるのか分からない。

これを書いてて、「えりさん」に猛烈に会いたくなった。普通に働いて、日本人の恋人と穏やかに暮らしてたりしたら笑うなあ。それか、あの瑞々しい感性のままアーティストになっていたりして。

1つだけ確実に言えるのは、「えりさん」は愚かで儚くて、救いようのない生活を送っていたけど、同時にそんな状況下においても自分の環境を変える強い意志と実行力があった。それをどう活用するかは彼女次第だが、きっと「いつまでも不幸で儚いえりさん」でいられないんじゃないかなと思う。どこかで生きてるのか、オーバードーズがオーバーすぎて命を落としてしまっているのか、私に調べる方法は無いけど、せめて借金取りには追われてませんように。