最適な日を探す旅をしていた




25歳になった。
四半世紀というけど長いのか短いのかわからない。ある脳科学の研究者が人間には時間を体感する機能はないと話していた。人間が時の流れを感じるのは、周囲の環境の変化率から測るからなのだと。この話にオチはない。

25歳が私にとって覚悟と勝負の年になりそうなのと、「中村タカとは何者なのか」と最近よく聞かれるので、普段は照れてあまり話せないけどこの機に改めて自分について振り返ってみようと思った。

ちなみに、自分とは何者か、という問いは必要に迫られない限り考えないようにしている。
発達心理学では青年期にあたる私たちの世代(と言っても13歳~25歳くらいと幅がある)は自我同一性からはじまり、アイデンティティの確立を試み、誰しもが何者かであろうとする時期なので、まあそういう時もあるよね、とは思う。
ただ客観的に自分が何者なのか語るには相対化するために他者を引き合いに出す必要があり、「普通の人と比べて〇〇」みたいな話になりがちだ。”普通の人”という虚像を見つめ答えのない傲慢さや自己否定に陥るのは避けたい。ましてや肩書きや所属や経歴なんかは、今この瞬間に必然性を持たせるための道具でしかない。

だから今日は、相対化されない自分の思いとか、軌跡とかそういうのを少しだけ広げてみようと思う。と、筆をとったばかりだけど青臭くて恥ずかしい記事になりそうな予感がすごくしてます。あとで消えていたら察してください…



The 27 clubをご存知だろうか。
ジミヘンなどの有名なアーティスト・俳優らが27歳で命を落としてしまったことが多いのを受けて、まとめてそう呼ぶらしい。
25歳になったのに27歳の話をはじめてしまったし、私はロックもアートもそんなに詳しくないのでThe 27 clubについてはもう広げられないのだけど、私には、もうすぐ自分のストーリーが終わる、という感覚が物心つく前からずっとあった。

死ぬのに最適な日があるとしたら、今日かもしれない。

ふと、そう思うことがある。
保育園でお昼寝を抜け出して空を流れる雲を見上げていたとき、家に帰ってきて一人暗い部屋でミルクティーを飲んでいたとき、のどかな昼下がりに散歩していた猫と遊んだとき、好きな人とバイバイした帰り道、初夏のマンハッタン、田んぼに広がる真っ赤な夕焼け、などなど。
生まれてきたことは世界にマイナスだと思っていたし、申し訳なかったけど、じゃあどう死ぬべきなのだろう、と考えた。
私にはなんの大義名分も夢もなかったから、余計困った。

12歳、「将来の夢」がテーマの小学校の卒アルには「札束のプールで泳ぎたい」と書いた。卒業式では一人一人が壇上で将来の夢を宣言するのだが、私は「Googleの株を買収して大富豪になります」と言った。「将来の夢がない」と兄に相談したら、こう言えば、と入れ知恵されたのだ。
さっき調べたら当時の株価は220ドル、現在は1430ドルなので、将来じゃなくてその時実行すべきだった。ただ当時、本当は札束のプールよりGoogleの株トレーダーよりも、ずっと人に愛されたかったし認められたかった。

16歳の真夏のある日、バイト中にとある女性のお客さんから「明日実は乳がんの手術なの。だから最後に抱きしめて」と言われた。
都会の喧騒のど真ん中で、お互い少し汗ばみながら、私たちはゆるりとハグをした。40代くらいで、恋人は出来たことがないと言っていた。
この人は誰が守るのだろう、どんな形で人生最後の日を迎えるのだろう、と考えた。
1ヶ月後に楽しく健康に過ごしているブログを発見した。生きてるなら、まあ嘘だったとしてもよかったと思って閉じた。

17歳の秋、全校生徒の前で大好きなバンドメンバーと一緒にライブをした。15分だけだったけど、あの時ほど他人と心が溶け合っているように感じたことはないかもしれない。全部の星をひとつの宝石に閉じ込めたような濃密で熱狂的でキラキラした時間だった。
ベーシストのはなちゃんは「あの瞬間が最高すぎて、終わった後死ぬしかないって思った」と言っていたけど、当時の私は、そんな瞬間は人生に何回でもあると思っていた。
今になってちょっと彼女の言ってた意味が分かる。

19歳の春、生命活動に疲れて福島へ逃避行した。
仮設住宅が連なる田舎の駅に、詳しい内容は忘れたが求職ポスターが貼ってあるのを見かけた。「人の役に立つのが好きな方」と書いてあった。自分の存在意義を人に依存することは果たして幸せなのだろうかと考えた。

20歳の冬、とあるインターンの面接で「私は人生最後の日に、人に愛されたと思うために生きてます。そのためのキャリアパスとして御社を考えています」みたいな話をした。
文脈が意味不明すぎるが、面接官だった女性はとても優しくて、「もしかしたらそれ以外にも生きる理由があるんじゃないかと思う」と言ってくれた。
私は「本当かなあ」と思いながら帰った。面接は合格した。

21歳の春、カンボジアに自身にとって二校目となる小学校を建てた。

その外れにある家に、いや家じゃなかったかもしれない、風が吹いたら倒れそうな四畳半くらいの掘っ建て小屋にお邪魔した。
そこでは家族5人で過ごしていて、私に抱きつき全身を預けてくる末っ子の体温を感じながら「この子が10年後も屈託なく笑ってるといいな」と漠然と思った。

22歳の真冬の夜に、ハドソン川に飛び込もうと思った。
水があまりにも冷たそうで汚くてやめた。
寮に戻り、Netflixでドラマを観て笑って寝た。後日、自分の残りの人生は世界のために使おうと決めた。

「死ぬのに最適な日」だとしても、最近は意外と自分は死なないのだとわかってきた。考えれば考えるほど生きてる方がマシだ。こういうのは勢いが大事なのかもしれない。

一度だけ、色々な理由が重なり「今日こそは死んでも誰もが納得するのではないか」と確信した日があった。
そして、友人の前で自宅のベランダから飛び降りようとした。その時は相手が止めるだろうと思っていたので、死のうと思わなくても止められることから逃れた際の加速度で手すりに登ればいける、と思ったのだ。人生最後の日にしてはかなり打算的で情緒のない試みだった。
もちろん本気で止められたし、心のどこかで完遂できないこともわかっていた。そのあと友人が爆泣きして過呼吸になりそれが原因か数日間失声症になってしまったので、もうこんな形で人を傷つける真似は一生しないでおこうと猛省した。

そんな訳で今の私の「死ぬのに最適な日探し」はだいぶ形骸化したように思う。
そういえば、幼き日に内に秘めていた愛されたいも認められたいも、いつの間にかどこかに消えてしまった。
私は25年間であまりにも愛情をもらいすぎたし、過大評価されてきた。

存在意義も生きる意味も自分の中だけに見出すのは難しいが、今は恩返しがしたい。
まず何よりも、こんなに美しい世界に産み、育ててくれた家族へ。そして友人たちへ、機会をくれた人々へ、支えてくれた人々へ、応援してくれた人々へ。
そんなのいいよ、って多分みんな笑うと思う。でも今日まで「死ぬのに最適な日」に死ななかったのは生かしてくれた全ての人々のおかげだから、恩返しをしないと単純に落ち着かないのだ。
けれども返報性とはおそろしいもので、恩返し活動をすればするほどたくさんの幸せをもらってしまい、返す恩ばかりが増えていく。愛情の応酬には終わりがない。

ただ、それでいい。恩返しの旅が終わったら、きっと私はやることがなくなってしまう。もう既に一生かかっても返しきれないと思うけど。
そして、25歳は恩返しの旅のクライマックスになる予定だ。ちなみにしいたけ占いでは「2019年で恩返しは終わり」と言われた。そんなことなさすぎる。しいたけ占いでも外れることがあるのだ。引きこもりで面倒くさがりな私も、今年は少し頑張らなきゃいけない。たぶん今年だけじゃなくて向こう3年くらい。
そう考えるとThe 27 clubへの加入はちょっと厳しそうだ。



恩返しの旅がひと段落したら、愛する旅をしたいと思っている。
人生最後の日は「愛されたなあ」より「たくさんの愛すべきものに出会ったなあ」と思いながら迎えたいのだと、24歳の春に気付いた。
5年前の面接官に、「新しい理由を見つけましたよ」って伝えに行ったらどんな顔をするだろう。ああ、彼女にも恩返しをしないとなあ。