カナダは寒かった

GWに実家に帰った。実家の半径500mから動かないような、本当に実家で過ごすだけの時間だった。

前回のブログで、「私が昔も今も確かに存在していて、この先の未来も確かに存在していくのだと、この歳になってもまだ実感が出来ていない」と話したけど、実家というのは確実に存在していた物的証拠が残っているのですごい。実家は私が18の時に出て行ってからそのまま時が止まったように残っているので、1つ1つ目にするだけで、手に取るだけで、そこに付随する過去が流れ込んでくるようで、感傷的になりすぎてしまう。

庭の前には大きな街路樹が道に沿って植えられていて、初夏から鮮やかな緑で視界がいっぱいになる。建物のおそらく七階くらいはあるんじゃなかろうか、その大きな木々たちは風が吹くと一斉に語りかけるように葉を揺らし、夕方になれば枝葉で透かした西陽を部屋の中まで届けてくる。そんな変わらない光景を見て、多感だった十代の時と同じように神秘的な気持ちにもなる。


小学生の頃からずっと使っている机の整理をしていると、私が色んな思いを一人秘めながら生きてきた事実が質量以上の重みを持って私に訴えてかけてくる。自分と交わした交換日記(文字通り、私が私に宛てた日記が3往復くらいされたノートが見つかった。全く記憶にないのに開いたら当時の痛みが色褪せずに残っていた)とか、お父さんから出張のお土産としてもらったストラップとか。幼い頃は何かを軽率に買い与えられることがなかったし、欲しがることは良くないと思っていたので、1つ1つのものを捨てられずにいた。思えば、最近やっと自分の欲しいものはそれなりに買えるようになって、物に機能以上の価値が何1つ宿らず、所有することが逆に退屈になってしまったなあ。

こうやって考えすぎるとたとえゴミでも捨てられず、整理は全く進まなかった。


そう、小さい頃、というかきっと23歳くらいまで、私は多くのものをとにかく秘めている子だった。それは物だけじゃなくて、思いとか考えも含めてそうだった。よく喋るし裏表がないと言われていたけど、絶対に他者に侵犯されないように意識的に守っている心の一部分があった。別に知られたら絶対に困る!とかそういうわけじゃないんだけど、開示しようという発想がそもそもなかったし、開示する必要性も感じなかったし、開示したところで何が変わるとも思えなかった。


おそらく誰しも意識的にか無意識的にかそういう側面はあると思うのだけど、私は奇しくも文章にしてインターネット上でそれを表現することが増えた。毎回「なんかこれ掘り下げたいな〜」と思って文字に落とし込み、せっかくこんなに頑張って書いたのだから見てもらい何かに活用してもらおう、そのくらいのテンションで書いている。ただ、そういう内省的な、自分のわざわざ声にせずに深々と内心考えていることというのは、だいたい幼い頃から頑なに守り続けていた部分だったりする。


自分らしさというのは、ユニークであることとか、オンリーワンであることと同じ文脈で語られることが多い。自分らしさは、露出しなければ一生オンリーワンであれる。これは構造としてすごく面白い。露出し他者の目に晒されることによってそれが広い意味での評価対象となり、どれくらい平凡か、どれくらい優れているか、どれくらい美しいか、などの評価の尺度が望んでいなかろうが意識していなかろうが自動的に他者に一部委ねられることとなり、「この世に存在する自分らしさ群」の中のワンオブゼムとなる。

私は自分の内に秘めていた考えがこのプロセスに乗ることで、自分らしさ、自分を形成する一部がワンオブゼムとなり外部化されるのを観察するのが好きだ。特にそのエピソードがユニークであればあるほど”拡散”され、大衆に消費されるという意味でのコモディティになるのが、逆説的で興味深い。

つまり自分らしさというのは共有された時点でそれは既に自分だけにとっての自分らしさではなくなる。自分らしさを幾分か自分の中だけに所有せずに済むことになるので自分は身軽になる。これはカタルシスのような意味ではないし、よくある自己開示で楽になりました〜みたいなものでもない。なんというか、自分らしさの一部を大衆の消費対象にすることで自分らしさの探求が完結してしまい、自分らしさに対する個人的な興味が薄れ、自分の内にあるときにはそこに向けていた意識を新たな探求に活用できるようになるような身軽さ。


だから、よく「〇〇なのが自分だから」や、「自分は〇〇な風に考えるんです」という、なんか自分らしさを他者と共通言語にしている人を見ると、飽きないのかなって思ってしまう。なんなら自分にも他人にも自分らしさを固定した時点で、内発的な自分らしさではなく外部化された自分らしさから内部を規定していくゲームになるので、私自身のその人に対する探求意欲が失せてしまう。


自分らしさとは極めて流動的なものである。私たちの人格は環境の暴力を避けられないから、固執することの方がむしろ難しいかもしれない。自分らしさをさっさと外部化させて、新しい私に出会う方が今の自分には合っている。確かに生きてきたのだという実感がないのは、きっと自分らしさを切り出し始めたからだと思うけど。


確かに生きていた証に、中学生の時に撮った写真をいくつか持って帰ってきた。もはや前世の記憶のように感じるが、あまりにも思いが詰まりすぎて目に入るたびに感傷的になってしまうので、この記事のサムネイルとすることで外部化して身軽になろう。カナダで出会ったカモメさん。この文章もきっと来世のような私が、確かにいま生きていた証として慈しんでくれるでしょう。