カルマ


祈ろうと思って来たけど、誰に祈るのかも、私が祈って良いものかも分からなかった。

失われたものがあまりに大きく、得た教訓はあまりにも多く、祈りを込める対象が何なのかさえ分からなかった。


初夏、大きな楠が原爆ドームに静かに木漏れ日を落としていた。

職場の人間関係の話で笑いながらOLたちが通り過ぎる。快晴の空を映す川を、おじいちゃんが静かに見渡していた。柵の中に入って清掃する方は、日に焼けながらいつも通りの仕事をこなしているようだった。石碑の隣で静かに、確かに、大きな白いユリが咲いていた。


原爆ドームとその周辺の至る所に「忘れぬよう、二度と同じ悲劇を生み出さぬよう」と刻まれていた。深く深く刻まれているはずなのに、原爆ドーム以外の何1つも、当時の傷跡が見えなかった。


被爆の後、広島には75年間は草木も生えないと言われていたが、次の年には焼けこげた瓦礫の間から赤いカンナが花を開いたらしい。

広島は今も、日本の中で地方都市としてその役目を果たしている。


生きていくものだなと思った。


人類のトラウマにもなることが起きて、多くの人の心も体も引き裂いて、それでも数十年も経たないうちに街は再建され、人は戻り、花は咲く。忘れ去られないように必死にならなくてはいけないほどに。


平和記念公園には、原爆ドームを見据える形で石碑が作られ、こう刻まれている。


「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」


過ちは繰返しませぬから。覚悟か、怒りか、懺悔か、はたまた祈りか。

少し暑くて美しい青空の下、すずめの鳴き声が響く。どう考えても静かで平和だった。



私たちは過ちのカルマから逃れられない。

社会課題を解決する起業家が明らかな敵意や嫉妬から批判されている現場を幾度となく目にしてきた。


「そんなことするより人類が全員死んだ方が早いんだよ」と。


課題を解決しようとすると、またそこには反対する人がいる。課題を解決したら、また新たな課題が生まれる。

何かを良くしようとすると、誰かが不幸になる。



第二次世界大戦時に、世界最大の軍艦であった戦艦大和が船出をした呉の海辺には、「誓いの錨」というモニュメントがある。

「かつてここから船出した者はみな、愛するものを守る為でした。」と刻まれており、それに乗じて愛する者への誓いをしましょうという、恋人スポット的なやつだ。

愛するものを守る為に命を落とした事実を美しいと思うかどうかは人それぞれだが、愛するものを守る為に船出した戦艦大和が砲撃を向けた相手もまた、愛するものを守る誰かだった。



私がこの手で包み込める範囲を大きく超えた過ちのカルマから、私は逃れたかった。

この世に求めている人が一人でもいるものを、ただ応援することだけが私のやりたいことだった。マーケットなどという不特定多数の世界で必要かどうか、今後求められるかどうか、評価されるかどうか、そんなものを見極めるのに疲れていた。


だからといって、私のいままでの経験が記憶として残っている限り、自分が自分に刻み込んだ義務感はきっと私を逃がしてくれない。


こんな落ちこぼれた私の人生を、今まで出会った人はどんな風に見ているんだろう。

もし何も気にかけていなかったらありがたい。

一番厄介なのは「羨ましい」と思われることだ。


私自身は、特段これ以外の人生は望んでこなかった。けれども、もし私の人生が誰かにとって羨ましかったら、私自身がそれを良いものとして取り扱わなくてはいけない。そして、それ以外の人生は劣後するものだと感じなくてはいけない。

他人より良い人生を求めた意思決定の積み重ねだったら、どれだけ苦しくても他の人生の方が可哀想だと思うものだろうか。「お前の人生が可哀想じゃないなら、自分の生き方はなんだったんだ」と、「そんなに何にもないお前が可哀想じゃないなら、その生き方を最初から教えてくれよ」と誰かが泣いているような気がして、考えるのをやめた。


隣の山口県で、松下村塾を初めて見に行った。

吉田松陰は貴賎関係なく志の高い者を集め、次の時代を作る人物を多数輩出した。その活動は、欧米諸国に劣らない国力を築き産業革命を推し進めることに大いに貢献したため、松下村塾は世界文化遺産に認定されている。


「至誠」。この上なく誠実であること。

彼がモットーとしたこの言葉は遺産群にいくつも記されていた。

吉田松陰が生まれなかった日本は、産業革命をしなかっただろうか。答えはきっと否だろう。ただ日本ではなくなっている可能性もあるが。

一方で、産業革命によって工業化が進み、多くの社会問題・環境問題が生まれることとなった。

吉田松陰は幕府の意識改革の半ばに、打ち首によって30歳でこの世を去った。


人類の発展と繁栄に向かって、意識的にでも無意識的にでも全人類が組み込まれているはずなのに、人の世はいつだって不幸の香りがする。

16歳くらいの頃は、ヒューマンビーイングが数万年後に滅びることが分かっていてなぜ今生きるのか不思議で切なかったが、21歳くらいになって発展の方向性さえ変わればこの世の不幸を少しでも減らせるかもしれないと、絶望しながら期待するようになった。

無知だったからなのか、感受性が豊かだったからなのか、今よりも視座が高かったのか、その時の私と話してみたい。自分の命を周りの人の幸せのために使いたいという気持ちは依然として変わらないが、今の私は諦観と資本主義が染み付いた打算によって、繰り返される日常を受動的に過ごしている。


呉の海辺には海上自衛隊の学校がある。行進する未来の自衛官をフェンス越しに眺め、彼らの生き様に想いを馳せる。過ちは繰返される。祈りは届かない。今この瞬間に命を投じカルマの中を前進せよ。やってらんねえわ、と空を仰いだ。