許せないものは許せないままで

 


子供の頃から悲しかったことが、大人になっても魚の骨のように喉の奥に残っていてずっと痛い。
自分という主体が介在しないような生活を送って行きたいのに、肩書きや役割ではなく自分という生身の物体が利害関係の当事者として立ち現れたとき、途端に自分はこんなに乾いていたのかと気付く。

抑圧という認識のもと片付けてきた1つ1つの痛みは、圧縮されたマットレスのような、冷凍保存された肉塊のような、まあそんな形で私の心の奥底に横たわっていて、どれほど不感を装っていても何かの拍子に今まで抑えられてきた年月が嘘だったかのように鮮やかに元の姿を表す。消えることはないのだ。いつか、鮮やかに戻るには時が重ねられすぎて、ミイラのようになるまで。

子供の頃の痛みを引きずり、同じような痛みを感じると傷が更新され、いつまで経っても古傷にならないその場所をぎこちなく守る。そうしているうちに別の場所にまた新しい傷ができて、ついに両手を広げても庇いきれなくなる。
こんな防衛機制に邪魔されて傷つくのは本末転倒だから、なぜ引きずるのか、なぜ痛むのか、繰り返し自分に問い、その度に傷をなぞり、かさぶたを剥がすが、理由は解明できずに再び流れる血を眺めている。

時が経ち自分も新しい生活を送る、それでどうでも良くなることもたくさんある。それは本質的には「許す」とは異なる。私自身も許されないこと、それが唯一私が許すべき理由だが、万が一許されてしまったら、それでも私が許せないということへの虚無感がより際立ってしまう。

私は許したフリをして何1つ許せていないし、許したくもないのだ。
許せないものは、許せないままでいさせて。そして許せない私をどうか許して。そんな自分が誰かの幸せを邪魔しないように、私はきつく自分の首を絞め、喉の奥の痛みをごまかし、いつか私自身がミイラになるのを待っている。