アポトーシス
27歳になりました。
個人的には2年前の誕生日に書いた記事が私の全てな気がしてあんまり筆が進まないのだけど、とりあえずまあ「最適な日」を探す旅をしていた私が「恩返し」へと航路を変え、「愛すること」を目指す中ではThe 27 Clubへの会員入りは果たせそうにない。
その年を総括しようとすると11ヶ月前の出来事や感情はほぼ忘れていて、1ヶ月前のことばかりがハイライトとして浮かび上がって来るから、毎日それなりに頑張って生きてた私にアンフェアな気がして出来ない。といういつも通りダルめな前置きから、いつも通りつらつらと感じていることを記します。
とはいえ、この一年は人生でも特に一貫した葛藤が脳内にあったと思う。それは「自我の拡張による痛み」である。
仕事上大きなイベントが多かった26歳は、私自身は何1つ変わっていないのに肩書きが増え、関係人口が増え、アンコントローラブルな期待が増え、それに伴い失望が増えた。その失望の正体は実力と期待とのギャップである場合もあれば、そもそも私や私の会社を取り巻く概念を内面化した人による幻想(ちなみに、幻想と期待の違いは前考察してるのでぜひ)とのギャップもあった。
私自身は大いにこの「期待」と「失望」に振り回されていた。よく周りを気にしない人だと思われるけど、全然そんなことない。自我と会社、会社とステークホルダー、ステークホルダーと社会は不可分であり、関係人口(広義のステークホルダー)の増加に伴い自我が拡張する。そして免疫反応のように自我の延長線上において発生した異常へ反応し、痛みを伴う。ただ問題は、私という一個体と比較した際に拡張した自我は常にアンコントローラブルであり、痛みを避けるのがかなり難しいということ。無理ではないのだけど、不感になったフリをするか、制御へエネルギーを割くか、祈るか、確実な方法がない。
痛みというのは、前述の通り失望から来るような、自身の実力不足や失敗、あるいは心無い言葉だったり誤解もあるけど、愛されること期待されることそのものへの痛みというのもある。愛されること期待されることの痛みを、あえて幸せな痛みと表現するが、この幸せな痛みは対処のしようがないから一番厄介だ。
予期せぬ期待や愛情を受け取ってしまったときは、突然シャワーを浴びさせられるような感覚で、手渡された液状の幸せが、手の中で溢れて、体を流れ落ちていって、嬉しいから、もったいないから一滴ずつ大事にふれたいと思うのだけど、自分の不十分な感受性ではそれが出来ない。そんな自分への苛立ちと、いつかこれも全て流れて乾いてしまうのだという刹那性に悲しみを感じると同時に、愛と期待を受け取った時にその苛立ちと悲しみを感じている自分の滑稽さに切なくなる。そんなこんなで、こんな切なくて痛いなら、もう味わいたくないと思ってしまうのだ。
一方で、つまり私自身もまた、誰かの延長線上の一部として人への期待や幻想を抱いている。私は人に内在する無限性にすごく希望を持っていて、「みんな違ってみんな良い」というとちょっと雑だけど、クラスタリングが出来るように見えて虫眼鏡でみるとそこには無限があると思っている。その無限性への愛は人への期待あるいは幻想とも言えるが、この無限性があるからこそ人を愛することを面白いと思うし、「愛する旅」を目指す私としてはそれを諦めたくもない。
私がこの世界に自ら身を投じ、様々な機会に触れているからこそ、痛みを得ながら、他者の痛みとなりうることを繰り返していく。きっとそれは今後増していくのだろうし、麻痺する部分も合わせて広がっていくんだろうし、避けることもできないのだと色んな先輩たちを見て思う。ふと、一個体の感覚に立ち戻るととても奇妙だし「みんなしょーもなっ。解散解散!」みたいな気持ちになり、痛烈な孤独を感じながら不感を装う自分のアンバランスさに苦笑いしてしまう。ただ数年前までは、脱フュージョンしすぎて生きながらにして幽体離脱した人として自分を認識していたけど、数年かけて統合が進み痛みを痛みとして認識できるようになったのは良いことだと自分で結論づけている。27歳も頑張ります。皆様いつも愛と関心をありがとうございます。